筒井光康の略年譜

明治37年 1月24日生まれ 長野県下伊那郡上郷村で、父源吾、母こまの三男として出生。
大正8年2月 家を出て立身を決意、横浜の貿易商オリエンタル社に婦人帽子製造販売の見習いとして入社。横浜元町の市立横浜補修商業学校夜間部で簿記・英語を習い、山下町のフランス領事館でフランス語、ロシア語も個人教授で勉強。
大正11年 貿易のため、店主に従って満州ハルビンに出張。
大正12年 9月、関東大震災でオリエンタル社焼失。
11月、上海にオリエンタル社上海店を開設して赴任。
大正13年 オリエンタル社東京店を開設、その東京店勤務となる。
大正14年 10月、海外での修業を決意してオリエンタル社を退職。
10月、横浜港出帆の北野丸でパリへ35日かかり渡航。アカデミー・モード・パリ及びエコール・ド・ビジェ職業学校で学び、傍らゴッチェル氏のアトリエで製帽技術を修業。
大正15年 11月、米国ニューヨークに渡り、カントリークラブ・ハットカンパニーで技術者として働く。

15歳のときに家出

私が生まれたのは、明治三十七年、日露戦争がはじまった年である。家は「信濃屋」という百年ほど続いた染織業だった。創業以来、父は四代目に当たる。

幼いころ、祖母から聞かされた話では、私の曽祖父という人は、明治初年、横浜に出て外人商社に生糸を売り込んだり、また旧飯田藩で牧場を経営して牛乳を売ったりなどして、なかなかの事業家だったという。

ところが、明治四十二年、横浜開港百年祭が行なわれ、伊藤博文が暗殺された年に、四十二歳という若さで世を去った父のあとには、六人の子供と同時に少なくない借金があった。まだ若かった長兄が母を助けて「信濃屋」はどうやらもちこたえたが、昔の面影はない。

それでも、小学校だけは順調だった。その小学校時代、忘れられないのは、恩師・吉川廉逸先生の言葉だった。大正三年に第一次世界大戦が起こり、同六年にはロシア革命、その翌年には米騒動などがあった、その最中のことである。

「これからの日本で、国を富ませ、強い国民になるには、海外へ発展することだ。狭い国土の中にだけいて武力だけでは駄目だ。目を世界に向け、貿易を拡げることだ」

この一言が、私の胸を打った 。

兄に手を貸し、コツコツやって筒井家の再興をはかることもいいが「外へ出てみよう」そう思った。まだ見ぬ外国への夢が涯しなく拡がるが、それには、まず東京か横浜に出ることだ。

小学校の高等科卒業は大正七年三月。思い切って母の前に進み出て、そのことを言うと、「お前、そんな夢みたいなこと言うんじゃねえ。東京へ出たって、そりゃ苦労は並大抵のもんじゃねえ。それより、家にいて家の仕事を手伝っておくれ」

これは、母も兄も意見が同じ。そんなものかと思いながら、渋々と家業を手伝っていたが、心中は何といっても外へ出ることに傾くばかり。

折りも折、同郷出身の中島文之助という人が、アメリカから十八年ぶりに帰って、横浜で外人専用の帽子と羽根飾りの店を開いたというニュースが私の耳に入ってきた。

もう、いても立ってもいられない。といって、母や兄に話しても、きいて貰えっこない。

忘れもしない。大正八年二月十四日のことだ。とうとう家出をしてしまった。朝早く、そっと家を抜け出すと、母や兄に見つからぬよう、小脇に身の回り品をつめた風呂敷包みと、小遣いを貯めてたしか十二〜三円になっていた貯金通帳を懐中に、赤穂駅め向かって七里ほどの道を走っていた。伊那電鉄の一番電車に三時間ほど乗ると辰野へ着く。そこから中央線で、今度は東京へ。

私は前もって、神田錦町の紙屋に奉公している小学校の友だち岡島安冶君に手紙を出しておいた。うまく岡島君に会えるだろうか。そのつぎ、横浜へ行って、中島文之助という人に会い、できたら使って貰うつもりだけど、はたしてうまくいくだろうか。一方、黙って出てきた生家では、今ごろ母や兄がどんな思いをしているか。それらを思うと、希望と不安が入り乱れ、とても車窓の景色どころではなかった。

横浜で勤め、勉強

翌日、手にした地図を頼りに横浜駅を降りると、一人で賑やかな市内へと踏み出した。東京も賑やかだったが、横浜のそれはまた一風変わっていたといっていい。外国への船が出入りする港があるせいだろう。洋風の建物がいっぱい目についた。

私が訪ねさがしていた中島文之助という人の店(元町)は、そんなハイカラな建物の中にあった。「オリエンタル社」という看板がかかっている。

私は勇気をふるい起こして、店の中へ入っていった。

「私を使って下さい。使い走りでも、掃除でも何でもしますから・・・」

もちろん、前もっては何も言ってなかった。相手のご主人はびっくりされたに違いない。

「急にそんなことを言われても困ってしまう。それに、今小僧さんはまにあっているし・・・」

しかし、そんなことで引き退ってなんかいられない。何しろ、家族へは無断で出てきたんだし、他へ勤める気なんて毛頭ない。必死だった。

「信州からこの店を目指してやってきたんです。どんなことでもします。ためしに一週間だけでもいいから使ってみて下さい。それでどうしてもいけないんだったら諦めます」

執拗な粘りに負け、そして同じ郷里の出身ということに同情を寄せられたのかも知れない。

「それほど言うんなら、じゃ、暫くいてみるんだね」

やっと首をタテに振ってもらえることになった。

当時、主人の中島文之助という人は、四十歳の働き盛り。二〜三年前、アメリカから帰って、外国人が大勢いる横浜の地で店を開いた。いわば日本の婦人帽子では草分けのような人だった。外国が長いため、英語はペラペラ。したがって店へやってくるお客さんも、信州などでは見ることもできない洋装の外国婦人か、日本人でも外交官か、さもなければ外国と関係ある商社や上流階級の奥様が多い。そのうえ、店の経営そのものも外国流の新しいものだった。

大正時代の住込店員といえば、ほとんどが小学校卒業と同時に入り、満二十歳の徴兵検査までする年期奉公。三度の食事のほかは、盆と暮の二回の休みだけ。主人から与えられるお仕着は絣の筒袖に角帯、時には半纏をまとい、外へ出る時には鳥打帽といったところ。朝は五時、六時ごろからキリキリ舞い。掃除、使い走りから主人の子供のお守りまで間断なく続き、終わるのは夜の十時、十一時ごろ。それでいて、貰えるものは、学校の先生の給料が月二十円ぐらいのころ、住込店員が手にするものは月七十銭から八十銭が相場ではなかったろうか。

それがオリエンタル社では違っていた。まず、休みは一ヶ月に二回あった。仕事をする時間も、朝六時から夕方七時までときめられていた。だから、その気さえあれば幾らでも勉強できる。

当時の横浜には、英語・フランス語・ロシア語を教える外国語教室もあったし、市立の夜間商業学校もあった。そこへ、主人の中島さんは通うように熱心にすすめる。とくに外国語は、外人のお客さんと接するために是非とも必要なものであったのだ。

私は英語とフランス語を習った。それは、店番をしたり、帽子を外人宅に届けているうちに、どうしても必要に迫られたものであると同時に、いつかは外国に出かけて直接、新しい帽子の勉強をしていきたいという願いにつながっていた。外国へ行くなら、帽子の本場であるフランスのパリーである。そこで、フランス語を選んだのだ。

フランス語は、横浜のフランス領事館で行われていた。フランス人が直接、文法から会話まで教えてくれるもので、時間は毎日午後六時から八時まで。したがって、仕事を終わると直ちに夜学に講座へ通ったことになる。その期間は三年間に及んだ。

まず、中国を見る

私がフランス行きの夢を一層堅いものにしたのは、主人に連れられて何度か踏んだ外国の土地のせいにもよる。

一回目は大正十一年、私が十八歳の時だ。この時は満州(現中国)のハルピンを訪れた。ここは清朝末期までは松花江の岸にある一寒村に過ぎなかったものが、1898年(明治三十一年)、ロシアが東支鉄道の建設のための根拠地として買収してからというもの、新市街となった。さらに二回にわたるロシア革命の難を逃れたロシアの貴族たち、いわゆる白系ロシア人たちが多く住んで貿易を行なうようになってからは、アジアでは有数の貿易都市となった。

私はこのハルピンで彼らが行なう貿易の仕方を学ぶと同時に、新しくロシア語の勉強もした。この時、横浜で習得したフランス語がとても役に立った。というのは、ロシア貴族たちは母国語のロシア語のほかに、社交用といてはフランス語を多く用いていた。その時、一介の帽子店員にすぎない日本の若者がフランス語を話す。話題になり、重要視されても当然だろう。私はフランス語の助けを借りて商売をしながら、その彼らからロシア語を学んだのである。

大正十二年といえば、関東大震災のあった年だが、その年の十一月以来、オリエンタル社は上海に支店を開設、約一年間、ここへ派遣された。

当時の上海は、フランス租界と、イギリス、アメリカの共同租界があり、広い中国のなかでももっとも多く外国の人や物に触れる機会の多いところだった。ここで商売をしながら、外国貿易の実際を肌で覚えた。

このように、早くから外国を知ったことは、私にとってすばらしいことだった。いままではボンヤリとしていた夢が、ハッキリとした青写真になり、確固不動のものとなったからだ。

これには、主人だった中島さんの支えも大きい。ある時、同業者に紹介され、次のような言葉をきいたことがある。

「この筒井君は、最初は無鉄砲に飛び込んできたんでビックリしたが、とてもいい店員になってくれた。頭もいいし、英語・フランス語なら、そこいらの貿易商社の社員にも決してヒケを取らない。年こそ若いが、この業界では将来のエキスパートとして楽しめるし、第一、誠実だ」

当の店員を傍らにして、これほどの誉め言葉があるだろうか。

その中島さんも、いまはこの世にいない。当時の主人と使用人とは天と地ほどの開きがあって、使用人は主人の犬か猫のような扱いの多い中にあって、この人は、店員といえど大事に扱い、ある程度仕事ができるようになると、信頼してまかせてくれた。そうなると、使用人といえども責任を感じ、主人の目の届かないところでも発奮し、努力する。現代では当たり前のことだが、当時としては珍しいといえよう。それもこれも、若くして外国生活をされたことが原因だったのだろう。

私がこのオリエンタル社にお世話になったのは、大正十四年までの六年間に及ぶ。

二十一歳になっていた。いよいよ夢のパリーへ渡ることになるのだが、これは大変なことだった。まず、渡航費と滞在費だが、パリー行きを心に決めたときから給料の八割を貯めた金が千四百円。これだと、往復の船賃と合わせ、向こうで最低の生活をして半年は暮らせる費用である。

どうしてこれだけの金を貯めたかというと、毎月の給料のほかにチップが大きかった。仕事が外人相手の場合、誠実にやってやると、彼らは向こうの習慣に従ってチップをくれる。これらの八割を貯金に回した。だから、酒・タバコ・お芝居、活動写真も自粛してすべてはフランス行きひとつにかけて頑張ったといってもよい。

パリーで婦人帽研究

さて、五十年前の日本人が憧れのパリーへは、お金さえあればよかったかというと、そうではない。見物と違うので、ただ行っただけには、意味がない、世界の先端をゆく婦人帽の修業が目的だったのだから。

その点でも、私は恵まれていた。駐在フランス大使のクローデル夫人は、パリーのファッション界と、かつて大使館に勤め、いまはパリーの天文台で活躍の寺田勢三氏に宛てて紹介状を書いてくださったし、ちょっと変わったところでは、東京有楽町の美容院・パリー院のマダム相原さんからは、パリーの万博に通訳として渡っている塩沢さんを紹介して貰ったからである。

その日は、大正十四年十一月二十三日、私はヨーロッパ航路の日本郵船の客船「北野丸」(六千トン)の三等船客となって、横浜を出発した。

もうそのころには、郷里の母や兄から、あたたかい励ましを受けていたが、日本を離れるとなると感慨は一入である。かつて「世界に目を向けよ」と教えてくれた吉川先生や同級生たち、そしてオリエンタル社で一緒に働いた同僚の姿などもマブタの底に焼きついて離れなかった。

<きっと勉強し、すぐれたものを持って日本へ帰ってくるぞ>

岸壁を遠く離れたころ、私はいよいよその決意を固めていた。

船は途中、上海、香港、シンガポール、コロンボを経てポートサイドでクリスマスを迎え、マルセーユ港に到着したのは十二月三十日朝。三十五日間かかったわけである。

すぐに、パリー二区のローミユル街にあるアカデミー・モード・パリを探し出し、入学手続きを取った。そこは、いわば職業学校で、私は製帽科のコースを選んだのである。クラスは二十人ほどで、海外からの留学生もいたが、それはすべて女性で、男といえば私一人、しかも日本人では初めてだという。

はなやかな女性ばかりの中での黒一点に対して、彼女たちはいずれも親切だったが、いろいろな質問も受けた。曰く「どうやってフランス語を覚えたのか」「なぜ製帽科を選んだのか」「日本でも女性たちはニュー・モードの帽子をかぶっているか」など。

学校では一日中女性の帽子の材料・デザイン・製造技術などと取り組むのだが、私は下宿へ帰ってからも手を休めなかった。試作品ではあっても、私の場合、横浜のオリエンタル社における六年間の基礎があるので、商品としても通用する。それらを持って、身近にいたパリー婦人や、パリー在住の日本人などにも買って貰った。つまり、アルバイトである。

そこの学校では、普通、週に一つが標準だったが、私は三つも四つもの帽子をつくったろう。一つは学校に作品として提出し、他は売ってお金に換える。しかも、引っ張りダコだった。

これらのことは、横浜のオリエンタル社の中島さん宛てにも時々手紙で知らせていたが、別の方向からも中島さんの耳に入っていたらしい。どのくらいかして、その中島さんから私に対して、パリーで婦人帽とか洋品雑貨を買いつけて日本へ送るよう言ってきた。つまり、支社のような役目である。そこで、ローミユル街、キャトル・セプタンブル街、リュ・ド・ケールの問屋街などを歩くようになる。流行に目を光らせ、これはと思うものを買いつけては日本に送った。

当時の私の生活だが、住まいはパリー十四区のポート・オレヤンの安ホテルの八階に定めた。東京でいえば下町で、そのほとんどが労働者ばかり、日本人は一人もいないので、日本語は一語も通用しない。いやでもフランス語は上達する。

生活費は一ヶ月百円ほどを予定していたが、実際にはずっと安く上がった。というのは第一次世界大戦の影響でフランの価値が下落し、代わって円の価値が上がったことが原因する。さらに帽子を作って売るアルバイトや、横浜オリエンタル社の買い付けによる手数料などの収入がバカにならなかった。

<この分なら、半年と言わず、もっと勉強できる>

私の心ははずみ、毎日が楽しくてしようがなかった。

ヒゲの紳士がくれたもの

この辺で、私のパリー交友録をひもといてみよう。

当時、パリーの画壇ではレオナルド・フジタ(藤田嗣治)がまさに売り出し中だった。私が知り合った人びとも画家が多い。たとえば麻生豊氏であり、平賀亀裕氏、野瀬亀太郎氏、森芳雄氏、水谷清氏がそうだし、彫刻家では片岡角太郎氏がいた。柔道の石黒敬七氏ともパリ-で親しくなったし、日大教授の成瀬勝武氏、神戸の貿易商だった岡延太郎氏、さらにソルボンヌ大学で西洋美術を研究中の加藤健吉氏とお近づきになれたのも、いまはなつかしい。

二年目の九月末のこと。ノンキナ父さんこと麻生豊氏とヒラヒラ落葉の舞うマロニエの街を歩いていた。九月末は日本の冬だ。オーバーの襟を立て、地下鉄入口を目指して急いでいると、後から同じ歩調でくっついてくるフランス紳士があった。童顔でアゴヒゲがある。どこかで見たような顔だなアとは思ったが、その時は気づかなかった。

それから二〜三日して、日本人クラブに会合があった。出席者は、来仏中の横綱栃木山や三味線の杵屋佐吉夫妻など、それにフランス在住の日本人有志。久しぶりの日本料理と日本酒に満足し、私は一息入れようとベランダに出ると、そこに先日のヒゲの紳士がいるではないか。この紳士、しげしげと私の顔をみていたが、声をかけてきた。

「君は何のためにパリ-にきたのか」

私は、婦人帽子の研究だと答えた。

「それはいい」と言い、やがて「おやすみなさい」と手をあげると、その人は去って行った。誰だろうと不思議に思いながら自分の席へ帰ると、さっきのヒゲの紳士からだといって小さな封筒が置いてあった。表には「“NOUVRIEZ JAMMIS”ヌーウブリエ・ジャメー」(開けてはならぬ)と書いてある。

一体、何だろう、思い切って封を切ろうとすると、麻生画伯が傍らから止めた。

「待て待て、開けるなと書いてあるんだから、開けない方がいい」

無雑作にその封筒をポケットにしまい、後日、開いてみてびっくりした。ヒゲの紳士こそ誰あろう。世界で有数な数学者であり、当時、米国のリンドバーグ大尉による大西洋横断飛行の成功と到着時間までピッタリ言い当てた予言者であり、しかも前のフランス大統領“RAYMOND POINCARE”レイモン・ポアンカレー氏だったからだ。

前の大統領ともあろう人が、なぜ見も知らぬ一介の日本人青年に手紙などくれたのか、真相はいまだもってわからない。予言者である彼の目から見て、私のどこかに見るべきものがあったのだろうか。小さな封筒のなかには、一枚の紙片が入っており、そこには「”LES BELLES MODES“ベル・モード」とだけ書かれてあった。後年、日本へ帰った私がためらうことなくこの「ベル・モード」を社名にしたことは、いうまでもない。

パリ-では、アカデミー・モード・パリに続いてエコールド・ピジェでも勉強した。婦人帽子に関してなら、世界的水準のものを学んだといってもよかったろう。もう日本へ帰っても、誰にも負けはしないという自信のようなものがついた。

大正十五年十一月九日、アメリカ経由の船に乗った。ついでのことに近代アメリカも見て帰ろうと思ったのだ。しかし、イギリスの豪華客船クイン・メリー号の三等船室は、欧州からアメリカへ移民する労働者ばかりで、一列に並ばせられて裸体にされて消毒液はかけられるし、快適ではなかった。そのうえ、海は荒れるし、じっと船室に閉じこもって散々な目だったといってよい。

その時に、私は考えた。

<よし、ただ見物するだけじゃ面白くない。アメリカにしばらくとどまって、近代事業のやり方というのを勉強してやろう>

生活だったら、パリ-で身につけた製帽の技術がある。

船がニューヨーク港に着き、そこからエンパイヤ・ステート・ビルを見た時は驚いた。まさに修業のし甲斐のあるところだとも思い、胸を躍らせた。ところが、それからが大変だった。

アメリカで武者修業

私は、持っている金は五百ドル、ニューヨーク滞在は十日間ほどと申し立てた。が、実際の所持額は、十分の一の五十ドルそこそこ。滞在だって、三ヶ月になるか半年になるかわからない。恐らくフランス語でペラペラとまくし立てる日本青年にド胆を抜かれ、オーケーしたのだろう。

上陸すると、すぐにイースト57丁目にある日本人キリスト教会を訪ねた。ここの清水牧師は、私の話を聞いたあと「何とか力になってあげましょう」と言って下さった。早速、一週間分の宿泊代十一ドルを払って教会に住みつくことにした。

翌日、私は清水牧師に 「どこか、製帽工場で働きたいけど」と言うと、「いまは排日運動が激しく、いくら私が牧師でも簡単にはいかない。筒井君、求めよ、さらば与えられんだよ」という返事。私は翌朝から「ワールド・タイムズ」の求人欄を食い入るように見た。帽子製造工場の求人はないものかと探したのだ。

当時、私は「ワールド・タイムズ」の就職欄が午前零時に出ることを知らなかった。朝はのんびりと起き、新聞にそれらしい求人が出ていると、朝食をすませ、地下鉄に乗ってそこへ行く。すると、大抵はもう採用者がきまったあと。やっと早起きが必要なことに気づき、こんどはダウン・タウンの製帽工場に朝食抜きで駆けつけた時は、これは一番乗りだったが、駄目だった。私がいくらパリ-で修業したといってねばっても「東洋人だから」という理由で受け入れられなかった。

私のプライドは傷つき、一時は、よほど船に乗って日本に帰ってしまおうかと思ったほどだが、「こんなことに負けてなるもんか」と思い直した。それからはビルの窓ふき、皿洗い、芋の皮むき、ハウス・ボーイなどもした。

二週間ぐらい後の日曜日の午後、教会の中庭で七十歳ぐらいの日本人に会った。この人は、ハート・フォード市にある大きな洋装店の社長宅のバトウラー・コックをしているとかで、名前を東郷公彦氏といった。聞かれるままに、これまでのこと、いまの立場などを話すと、「それは勿体ない。私の主人であるミスター・ガイに会ってみないか」ということになった。

ハート・フォード市のミスター・ガイ氏と会った結果は、そこで二週間ほど働き、

「君の腕ほどなら、ここでは勿体ない。ニューヨークの方がいい」となり、再びニューヨークへ戻って、紹介された23丁目の「カントリークラブ・ハットカンパニー」の工場で働くことになった。この時は、週給十六ドル。交通費や食費を差し引いても二ドルは残る。

最初はデザイナーの下でミシン掛けの仕事だったが、次第に認められて責任ある仕事を受け持たされると同時に週給も三十ドルに上昇。余裕ができると、本格的な語学をマスターのため市立の夜間小学校へも通った。合理的な経営をも知ることができた。

社長のギヤマン氏、デザイナーのテイガー氏、ウィルソン嬢とも親しく口がきけるようになり、ある程度の資金もできると、そろそろニューヨークを離れようと決心。それにしても、まっすぐ日本に帰るのは勿体ないので、さらに欲を出してアメリカ大陸横断を計画。

ニューヨークを振り出しに、フィラデルフィア、ワシントン、シカゴ、サンフランシスコなどの都市を見学。もちろん、そこでは婦人帽子の製造から販売のシステムを見て回り、ロスアンゼルスでは新式の製帽機械と材料を購入。十月初め、サンフランシスコ港から日本向けの客船「大洋丸」に乗った。

横浜港に到着は、昭和二年十月三十一日のこと。二年半余ぶりだった。

「ベル・モード」開店

私が日本へ帰ってきた時、その日本は不景気の真っ最中だった。名のある店や会社がバタバタと倒産し、失業者は街に溢れようとしていた。そんな時に私は開業したのである。

昭和三年一月。当時の麹町は閑散とした住宅地だった。東京都内を方々物色して歩いた結果、どうして麹町でやろうと決めたかといえば、近くに外国大使館が多く、高級な邸宅が見られたからほかにならない。婦人帽といっても、まだ限られた一部の人のものでしかなかった。

さて、麹町の表通りに手頃な二階家を見つけたが、金はなかった。アメリカで働いた金は機械や材料を買い、方々を見て回っているうちにほとんどゼロ。やっとのこと、郷里の長兄が資本金として三千円借りてくれるという。その三千円でも大金だった。しかし、権利金を払い、大工や左官、建具屋などを呼んで造作に手を加えると、約二千五百円が飛んでしまった。

店の名前は、前にも述べたが、パリで出会ったヒゲの紳士、実はフランスの元大統領がくれた紙片にあった「ベル・モード」をそのままつけ「ベル・モード帽子店」とした。

一年近くは苦しいことの連続だった。馴れない土地で、いきなり高級婦人帽子を売ろうとするのだ。明かな冒険だった。そのうえ、資金も足りない。店員も雇えないので、はじめのうちは郷里から母が出てきて、店以外のことは一切やってくれた。

フランスで知り合った日本人の友人麻生豊氏、岡延太郎氏がやはり帰ってきて、チョイチョイ顔を見せるようになったころ、珍しい店ということで評判になり始めていた。店の構えから店内の飾りつけ、そして、そこにあるものすべてがパリー風だったからだ。

お客さんは、外国からきている外交官や各宮家の御用も始まり、日本人では大きな邸宅に住むごく限られた層の夫人たちだった。そういった種類の人たちのところへ出入りするようになることは大変だが、反対に、一度出入りが許されると、次から次、友だちや知り合いを紹介して下さるということもある。

二年目に入ると、店員や職人も置くようになり、三年目には、時によると店の前に自動車や馬車の列ができるほどになった。新聞や雑誌が取り上げると、そのたびに新しい客が押し寄せ、それが評判になって新聞がまた書くといった風。店も珍しかったのだろう。有名な大久保作二郎画伯、中西利雄画伯等の絵描きが何日もキャンパスを広げて描かれ、何度、雑誌の表紙や口絵になったことか知れない。

商売の特徴は、良いデザインの型で決して安く売らないことだ。その代わり、材料を吟味し、一つ一つが客のやサイズに合わせ新デザインにも工夫を怠らない。妙なもので、高いものにこそ客が集まる心理がそこにあった。金額の高い新しいデザインもの、即ち高級というイメージなのだろう。結婚はパリー滞在中の岡延太郎氏の紹介で、君子を迎えることになった。彼女は新しいセンスの持ち主で、私の仕事にも協力したいというので理想的な女性だった。結婚後、まもなくパリーに留学させた。昔のフランス人の友人に頼みアトリエで本式の製帽デザインの勉強をみっちりした。今日でも毎年の如くヨーロッパに出掛けて新しいモードと流行の仕入れ等、共同の働きで全く良き私のパートナーである。今日の仕事の成功も彼女に負うところが多い。

昭和八年やはりパリー帰りの知人・伴野文三郎氏が銀座でビルをつくったので、その一階の角店を借りて銀座店を開いた。そのころは「ベル・モード」の名前が知れ渡っていたのか、たちまちにして店内は人でいっぱいになった。少し誇張した言い方をするならば、いいところのお嬢さんがお嫁にいく場合「ベル・モードの帽子を持っていかねば」という噂が生まれたほどだった。

新しい流行を取り入れるのと、それにふさわしい材料仕入れのためには、パリーとの間も何度か往復した。当時は全部船なので、シベリア経由でも片道十五日、山ほどの材料を買い集め、帰りはスエズから印度洋経由だと三十五日もかかった。恐らく、小さな商社などでは行ない得なかったことを私はしていたように思う。

宮中の御用も承る

限られた特権階級だけを対象とした商売から、一人でも多くの大衆化へと路線を拡げたのは、昭和十一年ごろからである。店の規模が大きくなったのと同時に、日本国内でも洋装が普及し、婦人がかぶる帽子も特定のものではなくなっていた。杉野ドレスメーカー学院杉野繁一氏が資本参加してそれまでの「ベル・モード帽子店」を「株式会社ベル・モード」に改組し、製造工場を持って大量生産し、主としてデパートへも卸すことにした。この場合も、独自のオリジナリテイは崩していない。店の中に育ちつつあったデザイナーや職人の一人一人に対しても、時にはパリ‐やロンドンを見てくることをすすめ、たえず世界を舞台とする服飾の一端を強調し続けたつもりでいる。

新しく神戸支店を設け、築地には工場をつくった。

昭和十年ごろから宮内省の御用を承るようになったが、これはやはり、パリーにいたころお近づきを得た川合公使夫人のご推薦の力が大きい。この方は西郷隆盛のお孫さんに当たられる方で、したがって宮中関係とも近かったに違いない。当時としては、誠に畏れ多いことだが、皇后陛下のお身近に接して、男性ではただ一人、お帽子を作らせていただいて、それは昭和三十五年まで続いた。代理の許されないご用命は御文庫の奥まで参内して直接御用命が続いた。このことは終生忘れられない光栄この上ない仕事であった。

秩父宮、高松宮、三笠宮の各宮家の御用もお受けしたが、忘れられないのは三十四年四月、皇太子妃となられた美智子妃殿下がご婚儀の際のお帽子は全部ウェディングハットなど私が担当ささせていただいたことである。この身の栄誉、これに過ぎるものはないと思った。

話は前後するが、大東亜戦争中はどうだったか。

十八年十月、私に陸軍被服廠の仕事を手伝ってくれないかという話があった。国を挙げて非常事態のとき、これに身を挺するのは当然である。店の方は妻や店員にまかせ、私は軍属となって中国の漢口に渡り、そこで陸軍の被服縫製を担当した。しかし、それも十九年夏を過ぎると被服材料が届いてこない。仕方がないので、新しく船舶業務に従事し、ある船に物資を満載して上海にくると3ヶ月目に終戦になった。

鹿児島に上陸したのは二十一年の一月。

そのころ、ベル・モードの店はすべてなくなっていた。二十年五月二十五日の空襲で、麹町の本店も新宿支店も、築地の工場も灰になってしまったのだ。

再び苦労が始まる。昭和十四〜五年ごろ、手に入れておいた二百五十坪ほどの土地だけが残った財産だが、当時としては大した価値もない。バラック建の中では、家族がやっと食べ、そして生きていることだけで精いっぱいの時が続いた。

やがて戦勝国の進駐軍がやってきた。戦後五〜六年というもの、その進駐軍将校夫人の注文でようやく糊口を凌いだといってもいい時期があった。PXへも足を運んだ。

サンフランシスコで講和条約が調印されてから、ようやく日本にも明るいきざしが見えてきた。海外渡航ができるようになると、私はすぐにパリ−をこの目で見てきたいと思った。実際にパリ−へ飛んだのは二十八年だが、民間人では早い方だったろう。帰りには材料などもどっさりと仕入れてきた。

最初のビル建設は昭和三十八年だが、これにはわけがある。

パリ−にいたころ、出入りの親しい材料屋でフランス人の主人が私にこう語って聞かせた。

「自分が今日、安心して商売していられるのは、自分の父がビルを造ってくれたお陰だ。商売にはいい時も悪いときもあるが、どんな時にも慌てず、良心的な仕事ができる基礎は、店に並べた商品以外に生活の基盤が必要だ、その点、ビルはいい。どんな時でも生活の支えになってくれる」

そのころから私は「自分でも何とかしてビルを持とう」と思い続けてきた。終戦直後の困った時にも所有した土地を手離さなかったのも、そのためである。

昭和三十八年といえば、麹町のこの辺はまだ木造二階家がザラで寂しい街であった。資金が足りないので建築会社との協同ビルで七階建てを完成。一階を店舗、七階を住居にしたほかは全部、貸室とした。

二つのベル・モードビル

同じ昭和三十八年、それまで銀座店であった土地にファッション会社がやはりビルを建てたという。完成したばかりのビルの一階を店舗に、新しく「株式会社ファスト」が生れたが、これは「ベル・モード銀座店」の生まれ変わりである。婦人帽子を中心とした女性ファッションの店を経営する「ファスト」には新しいお客さんが見えるようになった。

昭和四十四年、麹町の旧ビルに隣接して、やはり七階建の新ビルを建設。半蔵門から新宿への大通りは拡張され、私の所有地も削りとられることが余儀なかったが、代わりに百坪ほどを買い足し、今度は全部、自前で仕上げた。

二つのビルの建坪総面積は約千二百坪。旧ビルの七階を住居とし、新ビルの一階を店舗とする以外は全て貸室である。となると、婦人帽子というよりは、貸室業の色合いが濃いが、その通り、ビルの管理経営主体は「株式会社ベル・モード」とは別に「筒井商事株式会社」を設け、そっちの方でやっている。もちろん、社長は私である。

現在「ベル・モード」と「筒井商事」の従業員は六十余人。しかし、スタッフの大部分は、婦人服飾に関するエネルギーである。実際に図面を引き、裁断やミシンに向うことの少なくなった私に代わって、いまは妻が陣頭指揮、毎年春秋二回は外国へは飛んでいくし、アトリエからは次から次と新製品を生み出している。

私がフランスとアメリカの修行から帰って開業の当座は、婦人帽子などというと、それこそ特権階級のものにすぎなかったが、いまでは国民全部のものになった感が深い。どんな家庭の娘さんでも高校生ぐらいになって頭に帽子をのせたことのない人はあるまい。帽子が他の服飾と調和して、いかに優美にして欠くことのできないものであるかは、先ごろ来日されたイギリスのエリザベス二世女王の場合を見ても明らかであろう。

私どもの場合、迎賓館とか大きなホテルでのパーティーに出席される方々のご注文も多いが、大衆化にしたがって、デパートなどへの納品も多い。日本航空のスチュワーデスがかぶる帽子は、同社発足からずっとベル・モードで納品している。世界の中の日本となった今日、欧米の流行もさることながら、日本独自の美しいものも創造するよう努力している。

子供は三人とも世帯を持ち、そのうち長男、次男とも私の仕事を継いでくれている。立教、慶応とそれぞれ大学を卒え、次男はアメリカに留学、いまでは大きな戦力というより、私を凌いでいる力強い部分がある。

幸い、健康に恵まれた私は、この上ともの健康を願い、同時に四十年来の趣味であるゴルフにせっせと通い、霞ヶ関カントリークラブの評議員もしているが、その他の役職に費やす時間も結構と多い。社団法人日本デザイン協会顧問、社団法人国際モード振興協会常務理事はまだしも、東京服飾デザイナー事業協同組合理事長や日本婦人帽子協会長、銀座名店会会長、東京麹町ロータリークラブ会長などは責任者としての負担は軽くない。

以上は昭和50年9月、求められて『現代信濃人物誌』(現代信濃人物誌刊行会刊)に書いたものだが、以後のことは駆け足で触れることにしよう。

なんといっても大きなものは、五十四年十一月、内閣から頂戴した「勲五等瑞宝章」の名誉である。

「多年、服飾業界に貢献した功労」によることだったが、ただこの道一筋に頑張ってきたにすぎない。それが、国から認められたのだ。感無量だった。

いよいよ奮い立ったこと、いうまでもない。「ベルモード」を通じ、あるいは業界団体を通じて「邦家のために」の思いを強くした。

あとがき

この冊子は、『私のファッション人生』より抜粋したものでございます。ご覧になってお目障りや見にくい点が多々あったと思います。日本のファッション界に六十五年の間一人の男が歩み続けて来た姿をご笑覧いただければ幸いと存じます。はじめはとても他人様の前に出せるようなものではないと気恥ずかしさでいっぱいでしたが、ただありのままのことであるならば後輩のためにも何らかの参考となり意義のあることと思い、記録を残すことにした次第です。

これからも余生ある限りファッション界のために尽くしていきたいと思います。今後とも変わらぬご交誼とご指導をお願い申し上げます。